呉エイジ 秘密の探偵小説読書日記

日記と探偵小説の読書録

平林初之輔「秘密」を読む。

 仕事中に、それもクソ忙しいときに、嫁さんからラインメッセージが来たのである。

 急用か? と思い確認だけすると「夕方、お義母さんが急用でラッキーちゃん(愛犬のシーズー)の散歩が行けていません。誰か早く帰れますか?」

 という家族に向けての確認事項であった。私は残業中であるし、長女ちゃんも歯医者に勤めているので「帰れない」と返信。

 私は見るだけしか余裕がなかったので放置。

 すると『既読になったのなら状況を説明せいや

 と何だか怒りのメッセージが。

「仕事中に散歩頼まれても行けるわけないやろう。定時で帰れるなら速攻で返信するし散歩も行ってます。仕事が忙しいんやな、みたいに思えへんのか」

 と返せば

「共働きやのにアンタの返信には思いやりが全くない。もういいです」

 という返事が。私は怒りのあまりオフィスで、でんぐり返りをしそうになったのである。

 狂っているのは私か、嫁か。ドグラマグラのような世界に包まれながら、私は本の世界へと現実逃避していくのだ。

平林初之輔探偵小説選1」から四本目「秘密」を読む。

 物語は男の告白から始まる。どうも毒を飲んだみたいで、数時間後には絶命するらしい。タイムリミットものだ。

 なぜ男は自殺を選んだのか。その顛末を語ることと、もう一つひねりを加えてやろう、というのが本作の特徴である。

 妻が夕方まで叔母のところに行く。出かけた途端、男は身支度を始める。この日、妻には知られたくない用件で人と会う約束があったからだ。それも女性。

 その女性はかつて男の恋人で、四年前に理由も告げずアメリカへ旅立ったのであった。男は失意のまま新しい恋に走り、結婚を約束していたにも関わらず、裏切られた気持ちから今の妻と結婚してしまっていたのだ。

 もしかして説明しにくい理由でアメリカに姿を消しただけだったのでは。私と結婚する意思をずっと持ち続けてくれていたのでは。

 男はかつての彼女を熱烈に愛していた。今の妻にそれほどのときめきを感じてはいない。

 大正時代の貞操観念がどれくらいのものであったのか。ゲス不倫が蔓延する現代の目から見れば「元カノとお茶するくらいいいんじゃね?」みたいに捉えられるのではないか。

 当時の読者はこの状況でもドキドキし、背徳感を感じていたのだろう。ここから自殺には到底結びつかない。

 約束のホテルへ移動中、男は今の妻を電車の中で見てしまう。なぜ同じ方向なのだ。向こうは男に気付いていない。家で留守番をしていると思い込んでいるからだ。

 ここでサスペンスを演出している。

 今の妻、深尾みな子は関東大震災で両親を亡くし、女学院を出ている資産家の娘であった。境遇に同情した男は、アメリカへ失踪した彼女、雪子のことを忘れる為にみな子と結婚した。

 本の間に挟んでいた密会の場所を告げる手紙を、妻は見つけて読んでいるのではないか。だから同じ方向の電車に乗っているのではないか。

 男は約束の時間にホテルの部屋をノックする。四年ぶりの元カノと再会は、とてもぎこちないものであった。時は残酷であったのだ。

 接吻や抱擁を期待していた男は(当時の既婚者はこれだけでもタブーであったのか? 今の目から見れば「えっ、それだけ?」という気もする)埋まらない溝に失意を覚える。

 元カノはアメリカで出会った日本人女性を紹介する、という。それは妻と同姓同名の女性であった。妻は先ほどホテルに入り、何処かにいるはずだが、目の前の女性は妻とは全くの別人である。

 話を聞けば同姓同名、生まれた土地、震災前に住んでいた住所も妻と同じ。双子でもない姉妹もいない。何故? どうして? 男と読者の頭の上には???のマークが回ることだろう。

 この状況下で作者は論理的な結末を用意している。

 

「秘密」1926年(大正15年)10月「新青年