相棒の漫画家、金平守人とは小六からの腐れ縁だ。
きゃつとは絶えず張り合って来た気がする。どんなつまらないことでも競争していたような気がする。
例えばアイスを食べ終わるスピード。ファミコンのゼビウスのスコア、そして当然当時二人で書いていた漫画の面白さ。
向こうが「絵が駄目、イマイチ」とくれば、こちらは「全く面白くない」と別の面で攻撃する。常に切磋琢磨な状態で自然に競争していたような気がする。
それは思春期に通る異性に関しても同じで、金平が「誰それが可愛いな」と漏らせば、自分はそれほど好きでもなかっただろうに、相手に勝ちたい一心でモノにしてやろう、と意地になってアプローチし始める。
そうして腹が立つのだが、金平はモテたのだ。
トータル、私の方が相手の女の子とガッツリ話す時間も長いのに、最後の最後は「金平くんがいい」となって、あいつが美味しいところをみんなかっさらっていくのだ。
俺の方がグイグイ話したのになんで? となる。この頃から一貫して女心は分かっていない。あんまりがっつきすぎるからかもしれないのだが。
すると金平は憎らしげに言うのだ。
「お前は長男だろう。俺は次男だ。これは次男の処世術なのだ。次男は長男がどんなことで失敗してお袋から怒られているのか、しっかり観察して対策を練る。俺はお前がガンガン話していた横で、相手の女の子が顔をしかめた話題をしっかり把握し、話題を分析した。あと謙虚さが良いのだ」
と、こう言うのだ。なんと言うこましゃくれたガキであろうか。
私は憎らしさの余り、机の角に金平の顔を口を開けたまま万力が何かで固定し、顔の上に跨って、口の中に大便を流し込みたいくらいに憎らしかった(我々は本当に仲が良いのであろうか?)。
しかし単に金平が好き、と言うだけで、競争心だけで好きになった女性に迫る私の心の嘘を、若くても女性はちゃんと見抜いているものなのだ。女性は鋭いし恐ろしいし、こういう男の行動は愚か、である。
気を抜けば愛憎入り乱れて、相棒ともいつ亀裂が入るやもしれぬ。
だから私は数十年に一回、友情を注入する努力をしている。前回は四国一周ブックオフ完全制覇旅行で、丸亀に泊まった際、ホテルの風呂で
「背中を向けろ」
と言い放って、いきなりあいつの背中を洗ってやった。かつて修学旅行であいつのケツを見ただろうが、今は吹き出物が散乱するだいぶ汚いケツになっていた。
洗い終わったら今度はあいつは「じゃあ今度はお前があっちを向け」となり
私は脇をこそばされながら、キャハキャハ言いながらされるがままなのであった。
って、何? このオチ。
※
さて、読み終えた「日本の近代的探偵小説」において平林がのちの木々高太郎が提唱する「探偵小説芸術論」に近い立場をとっているのが興味深い。
そして日本の探偵小説の黎明期、文壇側から探偵小説を発表した作家たちにも言及し、谷崎潤一郎、佐藤春夫、久米正雄、松本泰の名をあげ、平林の芸術感からすれば、谷崎の作品は敬服はするが、好ましからぬ要素が非常に多い。と評しているのが面白い。
戦前の日本の探偵小説シーンは変格をとっかかりにして繁栄して来た。それは谷崎潤一郎のアプローチで、変態趣味、猟奇趣味などを探偵小説を取り込んで、それは乱歩も積極的に取り入れた手法である。
そのメインストリームの潮流に、早くから苦言を呈しているのである。
しかし、この論で私は違和感を覚える。一年前に発表された「私の要求する探偵小説」に於いて「小酒井不木の作品は漏れなく読んでいる」と書き残しているのに、ここでは「森下雨村、小酒井不木の作品は遺憾ながらまだ読んでいない」と書いているのだ。
これは明らかに虚偽であろうが、問題は何故そのような「事実を曲げて」書く心境になったか、ということである。
この時、乱歩は「D坂」「心理試験」「黒手組」を発表し、押しも押されぬ人気作家街道を驀進していた頃だ。
有名な初期短編の中に、異常心理、変態心理の芽を感じた平林は、それに追随する不木ら後進の作家に対する警鐘の意味を込めて「読んでいない」と一旦自分の立場をリセットし、そこから自分の求める(謂わゆる健全派)形、理想とする探偵小説の形を宣言したかった、ということだろうか。
漏らさず読んでいる作家の作品を「読んでいない」と一言で切り捨てる背景には、自身が感心しない谷崎のフォロワー的変格探偵小説は、自身の要求する探偵小説とは合致しないので「遺憾ながら読んでいない」と排除した、と捉えられても仕方がないだろう。
そして「日本の近代的探偵小説」で、平林は乱歩の「新青年連続短編」で、この作品群は今の目から見ても傑作揃いなのであるが、結構手厳しい評価を下しているのだ。
「心理試験」が一番成功しているだろう、くらいにしか褒めておらず、他の作品は気になる傷を指摘している。
自尊心の強い乱歩は、どういう思いで読んだことだろうか。
乱歩の「眼高手低」な作家的態度は、この乱歩に向けられた一言「厳正な態度を失わずに精進するという方法によってのみ実現されうる。一度気を緩めたら最後、少なくとも氏を発足点とする日本の探偵小説は、見るもあわれな状態を展開するであろう」が大きく影響しているのではないだろうか。
それは呪いのような効力となって乱歩の心の奥に巣食ってしまったかもしれない。
変格探偵小説の限界、国からの検閲、という戦前の探偵小説シーンを予言するかのようでもあり、厳正な態度を捨て、通俗長編を書いて虚名を大いにあげても、どこか心の底から喜べない乱歩の背景には、憧憬していた評論家からの目が、絶えずどこからか感じられていたのかもしれない。