呉エイジ 秘密の探偵小説読書日記

日記と探偵小説の読書録

甲賀三郎「探偵小説の将来」を読む

 就寝前、嫁さんが困った顔で近寄ってきたのだ。

呉「どないしたん?」

「これな、私のiPhone、こないだ写真が一杯やなーって思っててん、で最近長女ちゃんとソフトバンク行って、あの子「ギガが減る」ってよう分からんこと言うてたやん。で、言われるまま、50ギガに家族割で変更したんや」

呉「ほうほう」

「で、私のiPhone16ギガやろ? で、契約済んで50ギガになったのに、写真撮ろうと思ったら容量足りません、て」

呉「アホやなぁ、説明したろ、ワシは64ギガや、オマエは16ギガや、ワシら夫婦がiPhoneとするで」

「私らがか?」

呉「ワシは水を64リットル飲めるねん、水が写真とするで」

「そないに飲めるかいな」

呉「たとえ話やがな、でお前は16リットル水飲めるねんけど、もうお腹には15リットル水が入ってるねん」

「写真は「枚」や」

呉「だからさっきからお前に原理を説明してるんやろ? ワシは64リットル飲める腹やから、まだまだ写真も撮れるねん」

「ジム行っても全然腹へっこまへんしな」

呉「それは今はええがな、で、オマエは腹の中に水がパンパンに入っとるから、もう水が飲まれへんねん」

「だからやな、それをこないだソフトバンクに行ってやな、50ギガに増やしてきた言うとるやろ、ちゃんと金も払って契約しとるんや」

呉「だから、そのギガはちゃうんじゃ」

「どう違うんじゃ」

呉「そのギガは腹に溜まらへんギガなんや、水を口から飲んで、鼻から出す、これを50リットル出来ますよ、っちゅうサービスにお前は契約してきたんや」

「は?」

呉「だから50ギガいうても腹には入らんと、口から飲んで鼻から50リットル通過するだけ、通過だけな」

さっきから何わけの分からんこと言うとるんじゃ!

呉「これだけ丁寧に仕組みを説明しとるのに、オマエと言う奴はまだ分からんのか」

「鼻から水通すって、どないぞ。何も伝わらん、絵も浮かぶか! ソフトバンク就職しても1日でお払い箱の説明や、クビやクビ」

呉「めちゃくちゃレベル落として会話合わしてるのに、何がクビじゃ」

「全く分かるか! アホの会話じゃ、それからなぁ」

呉「なんや」

「私が頭下げて分からんこと質問しとるのに『アホやなぁ』言うたやろ」

呉「そんなひどい事言うかいや」

おんどれその歳で痴呆入っとるんか!

 この先は大きな声でひどい言葉を言い合いしたように思う。詳しくは覚えていない。何故このようなことになるのか、私はただ、平穏が欲しいだけなのだ。

 仕事から帰り、ご飯を食べて風呂に入って、大好きな本を読む、これだけが望みなのに何故我が家はいつもこのようなことになるのか。

 気付けば愛犬達も部屋の端っこで怯えている。

 どうかウチのIT原人に、ギガの説明が理解できるシナリオを。

 宛先はコメント欄まで(号泣)

 さて気分を変えて、今回は「探偵小説の将来」を読んだ。

 本書の約半分を占める評論とエッセイ、物語ではないので、簡単に触れるだけにしようか、とも思ったが、なかなか読み流していくには惜しい内容が目白押しなので、備忘録がわりにここへ書き残しておく。

 このエッセイではタイトルが示す通り、探偵小説の将来を危惧する甲賀の心情が綴られる。

 探偵小説ブームが起こり、作家は探偵味があればなんでも統合し、探偵小説の本質がぼやけていることに警鐘を鳴らしている。

 後に甲賀が分類する「変格」の呼称はまだ出てきていない頃のエッセイで、甲賀はここで探偵小説を改めて分類、整理している。

 大まかに二つ

1 本格探偵小説

2 亜探偵小説

 で本格探偵小説はさらに三つに分けられる

A 推理式(探偵の活躍を主とし、推理によって犯罪捜索するもの)

B 冒険式(探偵よりも悪漢の活動を主とし、冒険を描くもの)

C 実話式(実話的なもの)

 で亜探偵小説は二つに分けられる

A 変態式(幻想、空想、変態的心理)

B 物語式(秘密小説、犯罪捜査を主とせず、秘密を解く物語)

 と、分けている。ここで私は甲賀の亜探偵小説に対する風当たりの強さが気になるのである。

 ここまで丁寧に分類しておいて変態式はないであろう、と。幻想式で良いではないか。まぁ私の趣味嗜好が変格探偵小説寄りなので、多少贔屓目はあるとしたって、この名称は当時の文壇でも「そりゃないだろう」という空気になったことと思う。

 本格は独特の形式であるし、書くには文学とは違った「才能」が必要となる。私だって何度も挑戦してみたが、未だ「本格」の骨法は掴めていない。

 そしてその「本格」の技能は、文章表現を犠牲にして、いや、文章力とは別の才能を要するため、本格作家は文章の批判を拒むのである。小説を書いてはいない、探偵小説を書いているのだ、と。

 そして探偵文壇でも変格寄りの作家にしてみれば、自分のカテゴリーを「変態」で括られたら堪らない。

 谷崎潤一郎の系譜や影響はあり、本格はダメでもそこに活路を見出す探偵作家はいたからである。

 ここに甲賀三郎の悪意、とまではいかないが、変格に対する冷遇が透けて見える。

 活発な議論を呼ぶための「釣り」とも思えない。甲賀三郎のこのような独断口調にカチンときた作家はいたことだろう。

 性格もあるのだろうが、乱歩の文壇を見渡した時事エッセイには不公平感は感じない。バランスが良いのだ。

 しかし甲賀三郎の場合、時に主張の偏りを感じる時がある。探偵小説のため、という命題の元でも、言われた方は腹のなかにしこりが残る感覚。

 前回のエッセイの中にあった、森下雨村に対する「芸術論を首肯したから無意識的に探偵小説不振を招致した」という上からの物言いは、文章内でフォローを入れているようで、それは完全ではない。言われた方は、くすぶりを残す火種が残ったままだ。

 これは甲賀三郎の創作にも言える、甲賀作品の特徴として、野暮ったい説明が唐突に入ることがある。

「囁く壁」において(重大事件や、異常な事件に大して驚かないのは酔漢の特徴である。それはちょうど、諸君がしばしば夢の中で経験されることと同じである。夢の中では死んだはずの人に会っても別に驚きはしない)という一節。

 これを入れるだけで、相当無理な偶然とプロットが許されるだろう、という甲賀の作家的判断が見える時がある。

 この一般常識を説いたところで、複数の人物が偶然同時刻に集まった事件の(「囁く壁」は特に偶然要素が凄い)無茶の担保には全くなっていませんよ、という思いが、甲賀の独断評論と印象が被るのだ。

1929年(昭和4年)5月「大阪朝日新聞

甲賀三郎探偵小説選 (論創ミステリ叢書)

甲賀三郎探偵小説選 (論創ミステリ叢書)