「ブログの書き方」とか「続けていくのが難しい」とか、そういう記事を目にすることがある。
何を弱気になっとるのか! とまず言いたいのだ。あなたはどうなのです? 日々のブログに書くネタが切れて、右往左往しておるのですか?
一日休むとアクセス数が減って、アフェリエイト収入が減って困る、みたいなことが頭をよぎるのでしょうか?
ネタ切れ、なんぞで頭を抱えるなんぞ十億年早い。いくらでも書くことがあるではないですか。
心構えからしてなっていない。なんのためのアクセス数ですか? 自分の利益のためですか? 虚栄心を満足させたいからですか? 数がアイデンティティーだからですか?
全部「否」ですよ。
ブログの真髄はですね、来てくれた人を楽しませること、これに尽きるのです。
いつの間にか「本末転倒」するんですよ、ブログ運営は。で、初心がブレる。来てくれる人に楽しんで帰ってもらおう。これが念頭にあれば、上下するアクセス数に縛られることなどないのです。
アクセスが1でも3でも、来た人を楽しませる。これが書く側にあれば、スランプなどあり得ないのです。
この真髄はお金を出してもらいたい文章なのですが、残念ながらここにはスイッチを押して課金してもらうボタンがありません。
なので、せめて私の書籍でも買っていってください。
この記事はブログ運営に悩む、あなたの座右の銘、天啓の一語になったはずです。
でも「毎日書いていると流石に書くことがなくなるでしょ?」
甘い、そんなものは幻想だ。運営側が用意する「お題」にもすがるな、と私は言いたい。
単行本を全国の書店で四冊出し、大昔ホームページ時代は一千万アクセスを突破した過去の栄光にすがる訳ではなく、私ほどの人間になれば、パソコンを起動した瞬間、真っ白の画面に書くべき文字が浮かんでくる。
「もしかして、なんの準備もなく、これ、勢いだけで書いてません?」
嫌な推測をするでない。
画面の向こうに、数字のカウントだけではあるが、誰かが訪れた「痕跡」があれば、
スランプ、やネタ切れ、みたいな甘えた言葉なんぞ出てくるはずがないではないか。
何を恐れることがあるのだ。書くことなど湯水の如く湧いてくるわ。ちなみに、はてなブログの今日のお題は「おやつ」いやいや、こんなものにすがるから心が弱くなるのだ。
書くことなんて山ほどある。キーボードに指を置けば、滑る様に動き出すに決まっている。何を恐れることがあるのか。えっ? 必死にページ数稼ぎをしている? バカなことを言うでない。ページ数が足りなくなるくらいに書きたいことはあるのだ。
アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、あはっ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハ
※
さて、甲賀三郎の評論パートを省略して(興味深い内容が目白押しなので、探偵小説ファンにお薦めします)、論創ミステリ叢書4冊目に突入である。
松本泰、日本の探偵小説黎明期に活躍した作家の一人、現時点での私の印象は「乱歩のエッセイであまり触れられていない」「小洒落た異国の雰囲気だけで、探偵味は薄味」というのが数篇読んでいるだけの私の印象である。
4、5巻が松本泰、読み通して印象が変わるかどうか、楽しみながら読み進めていきたい。
今回は「P丘の殺人事件」を読み終えた。
だいぶハードルを低く設定していたので「オォ、楽しめたではないか」というのが読後の率直な印象だ。
舞台はロンドン、青年坂口は、叔父の林と暮らしている。叔父の友人女性エリスとその娘、ビアトレスが主な登場人物。
叔父が「旅行に行く、内密に」という書き置きを残し坂口の前から消える掴みから、エリスの家の前で、酔っ払った謎の女性を介抱してやるエピソードを挟んで、話はエリスの挙動不審、それを見て心を痛めるビアトレス。エリスには謎の手紙が届き、心配事を抱えている、というのを察したビアトレスは、偽のおびき出し手紙によってホテルの一室に監禁されてしまう。
という冒険活劇要素もあり、語り口はアッサリめだが、冒頭の謎女が再登場したり(すっかり忘れていたので『あれは伏線だったのか!』と感心した)殺害現場での被害者の傷口の角度から、叔父の犯行が無理である坂口の証言シーンなど、国産探偵小説がほとんどない時期の作品としては大健闘であろう。
この堂々としたタイトルだけでも、私の中ではポイントが高い。
1923年(大正12年)5月「秘密探偵雑誌」