今日はとても日記を書ける精神状態ではない。
前々からここで書いている、ジムで出会う「まゆゆ似の女性」とのこと。
前回、ジム内で長女ちゃんが私に絡んできて、遠目には若い女好きの中年に映ってしまったところまでは書いた。
今回、と言っても先ほどだ。
ジムの入り口から鏡越しで目があった。五秒間ほどお互いは視線を逸らさなかった。
今日も可愛い顔をしている。
だが、どんな性格なのかは掴めない。まゆゆ似の風貌から「不思議ちゃん」の可能性も大いにある。
私が入って1分もしないうちに、彼女は荷物をまとめて退出してしまった。
ここまで、何度もジム内で目を合わせ、距離を詰めたりしてきたと言うのに。
この歳で「エア失恋」である。現在心の中は空虚である。
申し訳ない。今宵はこれ以上、書き続ける気力がない(※読書日記パートは休日に先に読み込んで書きためてあるため)。
※
さて、今回は「毒杯を繞る人々」を読み終えた。
今回も内容に踏み込んでいるので未読の方はご注意を。
前回の「清風荘事件」から一年後の発表である。冒頭から人物描写に円熟味が見られ、愛人宅で出会ってしまう年配の叔父と青年。金を取るか愛を取るか、と言うやり取りも手馴れたもので読ませる。
しかし、だ。探偵小説としての技巧は頭打ちが見られる。「清風荘事件」に近い構造なのだ。
これも相当な後出しジャンケン振りで、ここまでくると松本泰の必殺技、お家芸と言ってもいいだろう。
冒頭から意味ありげな愛憎劇や、会話を積み重ねても、真犯人はいきなり出てくるのだ。
何のヒントもない。
松本泰の考える「意外な犯人」の出し方には、無理があった。
例えば、だ。怪しそうな人物、関連人物の会話などを前半で積み重ねておいて、読者が「あいつかな?」「こいつかな?」と考えている横から、その家に住んでいる叔母が犯人だったりする。伏線も何もない。
一緒に住んでいたから、と言う可能性しか接点はない。
漫画「ガンツ」の岡八郎が現場にいたとしたら、あの有名なセリフ「意識の外からの攻撃か」と呟いたことであろう。
この方式なら無限に話が作れるではないか。いや、実際真犯人の設定の仕方は「清風荘事件」と同じなのだ。
泰先生、変なところで何か掴んじゃったのかもしれない。
1933年(昭和8年)12月「講談倶楽部」