緊急報告である。
フラれたか、に見えたジムで目の合う「まゆゆ似」の彼女。
本日、なんとも判断のし難い一時間であった。
私がスタジオに入り、開始時間まで床に座って待っていると、そのフロアーは50人くらい収容できる全面鏡張りのフロアーで、ダンスやエアロビを習う場所なのだが
「今日は彼女、来ていないな、辞めてしまったのかな」
と寂しい思いをしていると、なんと、後ろから近寄って来て(鏡で確認できる)私の横に座ったのだ。
他にもスペースはあるのに、である。
呉さんは自意識過剰だ。たまたまだ。
という意見があれば素直に聞き入れよう。だが、私は「彼女が敢えてそこに座った」としか思えないのだ。
とても可愛い。セミロングで鼻も高く、背は155センチくらいではないだろうか。小柄で華奢だ。
仕草から何から「女の子」力が高い。
私は動悸の高鳴りを抑えることができなかった。いい歳こいて、である。
向こうは途中の給水タイムでも私の真横でペットボトルを飲んだ。
「ここまで近寄って隙を見せているのに、なんで声をかけないの?」
と詰め寄られているようだ。
だが私は緊張して、目は会い続けているのに、声をかけることができなかった。
プログラムが終わって、ダラダラと会員が出口に流れていく。その時も並んで出口に向かったのだ。
「今『お疲れ様、フォーム綺麗ですね』と声をかけるべきか」
と、何度も自問自答をする。
休憩のソファーに私が座り、彼女は私の半メートル前で、背中を向けてペットボトルの飲料を飲んでいる。
なんでこんなにスリムなのにジムに来ているんだろう。30代半ばみたいだけど指輪がない。独身なのだろうか。
いろんな考えが頭をよぎる。タイムアップ。彼女は残念そうに背中を向けたまま女性シャワールームの方へ歩いて行った。
女性の考えていることがわからない。今までの経験上「全部男の逆だ」くらいに思っていた方が妥当なのだろう。
自分の魅力を試したくて、何人声をかけてくるか、ということに挑戦してドキドキしているだけで、実際に私が声をかけたら「ドン引き」するだけで終わるかもしれない。
しかし、だ。次回は挨拶くらいした方がいいのかな?
そんなことを考えさせられる、彼女の詰め寄り方であった。
〜続く〜
※
論創ミステリ叢書も順調に六巻目。浜尾四郎まで来た。甲賀三郎だけが紹介程度の内容ではあったが、これまで日本探偵小説黎明期を支えた、平林初之輔、松本泰の作品を年代順に読み進めて来た。
浜尾四郎のデビュー作「彼が殺したか」を読み終えた。内容に踏み込んでいるので、未読の方はご注意を。
江戸川乱歩で言えば「陰獣」より後「悪夢」と同月の発表である。
デビュー作でも堂々とした筆致で、理路整然としている。このデビュー作よりも前に、犯罪エッセイなどを寄稿しており、自身も検事、弁護士をしていただけあって、文章に淀みがない。
色々と興味深く読んだ。
事件は若い夫婦の家に招かれて麻雀をした後、一人は帰り、もう一人は泊まる。
その夜、その家での惨劇が起こる。夫婦が二階の寝室で血まみれになっていたのだ。傍らには招かれた若い男、大寺の姿が。
前振りとして
・主人は病弱であり、資産家。妻を愛していない風
・妻は恋愛に自由奔放。若い男子学生の友人を多く持つ。美しい女王。
事件現場は妻が後ろ手に縛られ、上半身は裸(仄かなエロチシズム)胸からは血が流れ苦悶の表情。
大寺は若妻を崇拝し、暴力を振るわれている妻に同情していた。
状況証拠的には大寺の犯行以外に考えられない。若夫婦は駆けつけた家人に看取られ死んでしまう。
浜尾は色々なケースを、大寺以外の犯行も弁護するつもりで提示して見せる。
しかし結局大寺は自白し、死刑は執行されてしまう。
物語は大寺が獄中で執筆した手記で終わりを迎える。
探偵小説的には「絶対的な真相」を見せる形である。
この物語は「法律の絶対性への懐疑」を含み、現代の目から見れば「おそらくSMの果ての惨劇ではないか?」と先読みされる可能性も高いが、今でもこの物語が力を持つのは、それだけに止まらず、大寺の若妻に対する愛。SMで主人を愛していたことを知った大寺は、世間の噂を逆手に取り、世間には二人が姦通していた(事実は違っていた)愛し合っていた、という幻想をこの後の歴史に刻む為、自分の命を犠牲にして愛を成就した、この倒錯的行動に凄みがあるからであろう。
1929年(昭和4年)1月「新青年」