昨日は嫁さんと松田聖子のライブ。大盛り上がりであった。ニューアルバムからの前半曲、これが中々良かった。
配信ではなくCDで購入予定である。
で、今回の日記のネタは「作詞」について書いてみようか、と思う。
というのも昨日、ツアーバスの中で(姫路発、ホテルバイキングを経てのライブだったのだ)移動中、松田聖子を検索するうちに
「◯いスィートピー」が「処女喪失」のメタファーである、という記述を目にしたからである。
暴論のような気がしながら呼んでみると「◯いスィートピー」=「シーツの赤い染み」「春色の汽車に乗って」=「陰茎」「海に連れて行ってよ」=「絶頂への誘い」と全てがこんな感じなのだ。
アイウィルフォードユー あなたのイキ方が好き。
とまで分析している。私は「ううむ」と唸るしかなかった。なんのなんの。簡単に一笑に付すことなどできないだろう。凡才には見通せぬ、ポピュラリティーの大いなる真理の欠片が隠されているような気がしたのだ。
人は「下ネタ」や「エロ話」を直接的に聞くと「不謹慎な」みたいな顔をしてしかめっ面をする。
しかし、そこへ比喩や芸術味を含んだ暗喩を施すと、心の奥で共鳴する大衆性を生み出し、ヒット作に化けることとなる。
物作りをする人間なら見逃せない考察ではなかろうか。
ミッキーマ◯スのイラストも、よく見れば「陰茎」を握っているかのように見えるカットもある。女性は気づかぬうちにマインドコントロールされ「かわいー」となっているのだ。
ミリオンセラーと性的なもの、これは実はすごく密接に関係しているのではなかろうか。
そこを盛り込むか、盛り込まないか、意識するかしないかで、サブリミナル的ベストセラーが生まれるかもしれないのだ。
そういう創作法で、これから一丁、私も作詞に挑戦してみようかと思う。
〜ピンク色のそよ風が 優しく頬を撫でて行くわ
私はスキップでこんもり盛り上がった丘の上を目指すの。
見渡せば向こうにも同じ丘、丘の頂上には赤い円柱の椅子があるの。
とても可愛らしい赤い円柱。空に向かってピンと立ってるわ。
どうしようかしら 座ろうかしら
私は迷いながら赤い椅子を手のひらで優しく撫でるの。
上から見下ろせば、私の行き先にはくびれた道が
道の真ん中には窪みもあるのよ
その先が私の目指す森。もう迷わないで進むの。
鬱蒼と茂った森の中、私は恐る恐る入り込んで行くわ
少し怖い、でもあなたを想いながら進んで行くの
ブラックダリヤ ブラックダリヤ 森の奥に咲いている
ブラックダリヤ ブラックダリヤ あなたに一輪、差し出すの〜
作詞使用料、五千円くらいでどうであろうか。
※
さて、今回は「探偵小説作家の死」を読み終えた。
浜尾四郎、ストックがあったのか、旺盛な制作力を持っていたのか、「彼は誰を殺したか」「島原絵巻」と同月発表である。内容に踏み込んでいるので、未読の方はご注意を。
そしてこの作は「タネ」で魅せる作品である。タイトルが示すとおり、二人の探偵作家が同じ家に同居し、師匠の才能を弟子が超えていき、師匠が弟子の発想を使って創作し、先に書き上げて発表する。
その言い逃れが良いではないか
「探偵作家は常に犯罪と密接している。探偵作家が一般人のような良心を持っていてもいいものかね? 実際に人を殺したり、人のものを平然と盗む。これくらいでないと駄目なのじゃないかね」
ざっと書けばこのような内容のことを言う。
そして面白いのは、リアルに犯行を犯し、それを「小説」の体裁として仕上げれば、当たり前すぎて逆に警察からは疑われないのではないか? ということ。
そして読者の興味を掻き立てるのは、師匠の妻が美人であり、弟子と姦通していたのが殺害動機だったのではないか? と匂わせるところだろう。
いやぁ、いやらしいし、芸術界の師匠の家に居候する、若い弟子との妻の不倫、というのは、昭和5年でも結構「あるある」だったのではないだろうか。
設定は面白いが説明過多で、ちょっと手際が悪く感じられた。作者視点での進行が多く、これが登場人物の会話だけで進行すれば、ガラッと印象の違ったものになっただろう。
1930年(昭和5年)7月「週刊朝日」