新作長編『鬼嫁探偵』が完成した。このブログに掲載するだけあり『探偵小説』のつもりで書いた作品だ。
制作期間は4ヶ月ほど。七万字強の作品となった。プロモートを兼ねて、色々と完成までの思い出話でも書き残しておこうかと思う。
まずこの小説は、江戸川乱歩の有名な随筆『一人の芭蕉の問題』を受けて書いた小説だ。その内容はと言うと、ミステリを文学色寄りにしたらそれはミステリではなくなるし、かといってトリック偏重なものになれば、それは遊戯文学となり芸術から遠ざかる。芸術のミステリというものは至難の業であろうが、俳句の世界で天才、芭蕉が出現し、芸術まで高めたように、ミステリにも一人の芭蕉が現れ、二つの要素を融合し芸術的なミステリがいつの日か書かれんことを。という趣旨の随筆であった。
若い頃にこの随筆を読んで『芸術的なミステリ』とは一体どういうものなのだろう。と考えたことがある。
その時は、難しい漢字、難解な比喩などを駆使したミステリ小説がそれに該当するのではないか、と考えたことがあった。
しかし、長く考えるうち、どうもそれは違うように感じてきた。純文学畑の坂口安吾『不連続殺人事件』あれこそが芸術的ミステリの回答なのでは? と思った時もあった。作品自体も傑作である。
しかし安吾自身が随筆で『ミステリはゲームに徹するものだ』と遊戯小説として名言しており、芸術的アプローチを盛り込んでいるわけではなかった。
そんな学生時代に読んだ随筆の回答を、今回形にしてみたのが本作である。
まずミステリ好きは現実の探偵を嫌うと思う。華麗な名推理と現実の浮気調査は雲泥の差だ。
ミステリは主に殺人を扱う。だがそればかりではない。日常の謎を扱った作品もあれば『殺人』を『うんこ』に置き換えた『うんこ殺人』の系譜も存在する。
『殺人』という重大ごとを『部屋にされたうんこ』の犯人捜し&謎解き、という面白さに置き換えたものだ。
ここで私はハタと気が付いた。ミステリの主題がうんこに置き換わるのであれば、それを性行為に置き換えることも可能なのではないか?
殺った、殺っていない、の謎解きを、ヤッた、ヤッていない、に置き換えるのだ。恋愛感情は人間の根源的な感情であろう。それをミステリのアプローチで組み立てれば、長く頭の片隅にあった『一人の芭蕉の問題』に、もしかしたら近付けるのではないか?
私は身震いし、興奮した。
そうして最初に殺人が起きて犯人が分かっているのに、後から刑事コロンボが来て、犯人のミスを指摘する形式、倒叙形式。これに当てはめることができるのではないか?
と瞬時に思い立った。物書きをしている人が、この骨格に気付いたら
『俺の方がもっと面白いものを組み立てられる』
と、すぐさま思えるような、面白さの保証のある形式だ。
そこへ男(犯人)の駄目さ加減、色欲に負ける性と、それを理詰めで追求する妻(コロンボ)の構図は、人間的感情も描けて一つの回答になるのではないか?
私はこの形式を『ちょっとした発明』のように感じた。
ならば『大乱歩』に捧げよう。そうして一心不乱に書き上げたのが本作である。
男性、それに主婦層にも訴求力のある物語に仕上がったと思っているが、大乱歩の前に立ち
『これが芭蕉の問題の正解なのか?』
と問われたら、冷や汗を流しながら『申し訳ありません』としか言えそうにない。
正解ではないかもしれないが、エンタメ小説の体裁はなんとか保っているとは思える。
最新作、楽しんで貰えたら幸いである。