呉エイジ 秘密の探偵小説読書日記

日記と探偵小説の読書録

開化の殺人-大正文豪ミステリ事始 中公文庫を読む

 

 最近の中公文庫は攻めている。ミステリアンソロジーでも、ちょっと違った角度からの、探偵小説ファンの心を掴むような、そんなアンソロジーを出してくれている。

 このアンソロジーは大正文豪たちの作品集。乱歩が本格始動前夜の作品群だ。

 

◆目次
・一般文壇と探偵小説/江戸川乱歩
・指紋/佐藤春夫
・開化の殺人/芥川龍之介
・刑事の家/里見弴
・肉屋/中村吉蔵
・別筵/久米正雄
・Nの水死/田山花袋
・叔母さん/正宗白鳥
・「指紋」の頃/佐藤春夫
・解説 大正七年 滝田樗陰と作家たち/北村薫

 

 芥川龍之介佐藤春夫の名前も見える。まずは一本、何から読もうか、と題名を眺め『肉屋 中村吉蔵なんてちょっとドキッとするタイトルだな、と惹かれつつも『Nの水死田山花袋から読んでみることにした。

 内容に踏み込むので未読の方はご注意を。

 こういった古い探偵小説は、空気感や世界観だけで個人的に満たされるところがある。文豪の手がけたミステリで、初めから驚天動地の大トリックみたいなものは望んでいないから、作家が雑誌からの依頼で、どういう角度から自分なりの『探偵小説』を組み立てるのか、そういう興味を持って読み始めた。

 谷崎や芥川が実際に取り組んでいるので、ポーの草案した新形式である探偵小説は、やはり文壇内でもある程度の影響はあったようだ。

 しかし専門作家でもない純文学作家が、簡単においそれと探偵小説の短編を作り上げられる訳でもない。

 田山花袋は本作でどう謎文学に取り組んだか。主人公は病に犯され、死期の近い老学者である。そしてその美しい妻。若い頃水難事故で亡くなった老学者の親友N。

 学者はうなされながら、Nのことを口にする。妻は看病しながら少しづつ過去を思い出す。

 Nと学者の妻は若い頃恋仲であった。老学者と三人で若い頃は一緒に青春を謳歌した。二人なら親の目、世間体もあるが、三人なら大丈夫だろう、という恋仲同士の思いもあった。

 避暑地の海で男二人はよく泳いだ。妻は微笑んで眺めていた。老学者はニコニコと物静かで、二人の邪魔をしないよう、適度に距離を保った。

 そんな青春の1ページであるNの名前を、病床のうわごとで繰り返す老学者。

「オマエはこの人生で幸せだったかい?」

 苦しい息の中、学者は妻に尋ねる。当たり前じゃないですか。二人は仲良く夫婦生活を続け、子宝にも恵まれ、子どもたちは皆独立し、老学者は地位も名誉もあり、裕福な家庭を築けた。

「本当に幸せだったかい?」

 ここまで他人から見たら羨ましいくらいの人生を歩んでいるのに、美しい妻も夫の問いかけに困惑するばかり。

 Nのうわ言が出るたびに、過去の記憶が少しづつ蘇る。老学者とNは泳ぎを競って遠泳をした。老学者は負け、Nは沖の方まで行き、急に頭が沈んだ、何度か浮き上がっては沈み、老学者と岸辺で見ていた妻は異変に気付く。

 恐怖でただ傍観するしかない妻、泳いで駆けつける老学者。ここで妻は辛さから封印していた記憶を呼び覚ます。親友の危機であるのに、その時夫は全力で駆けつけていないように感じたのだ。

 結果、Nは水死し、漁師に手伝ってもらい遺体を引き上げてもらった。悲しみから遺体に取り縋って泣きじゃくる若き頃の美しい妻。愛する者を失った真の姿を目の当たりにした若き老学者。

 その過去を病で苦しむ夫の『嫉妬』だけでは割り切れない妻、そんなはずはない、と思いたい妻。現に自分はその後、夫に好意を持ち、実際に所帯を持ったではないか。その人生に偽りはなかった。

 これを告白せねば死んでも死に切れない、と病の床で老学者は告白する。あの日、遠泳に誘い目標まで誘導したのは老学者であったのだ。そうして自分よりも泳ぎの上手いNは老学者を打ち負かし、岸から遠い場所まで泳ぎきった。

 心の奥に秘めていたこと。それはNと恋仲の若い妻への淡い恋心であった。しかし友情を裏切る訳にはいかない。

 しかし、もしNが死ぬようなことになったら、妻はどうなるだろうか……。

 トリックではなくプロバビリティの犯罪にあたるであろう、禁じられた恋心の招いた遊戯は、実際に足がつるトラブルを引き起こしてしまい、Nは沈んでしまう。そして助けなければ、という思いと、このまま死ねば妻を独占できるかもしれない、という心が葛藤し、それが遠くから見ていた妻が感じた『全力ではない、ゆっくり泳いでいたように見えた』という感想に繋がるのだ。

 白く冷たくなった岸辺のNの遺体に抱きついて泣きじゃくる妻。妻の恋は本物だったのだ。その心から愛するものを失った真の悲しみに暮れる女性の姿を目の当たりにした老学者は、その後、一生苦しみ続けることになる。

 この事実を告白したところで物語は終わるのだが、どうだろう。私は感心した。謎やトリックを超越して、心の複雑な不思議の断面を見事に切り取っている。木々高太郎の提唱した、探偵小説芸術論、このカテゴリーに入るべき短編ではないだろうか。

 実際に恋した女性を陥穽から手には入れたが、夫婦になり子も作り、裕福なのに何も満たされない。あの悲しみに暮れた妻の涙、どうやったってNには勝てない。

 聞かされた妻は困惑するばかりだろう。自分達の歩んできた人生を全否定することになるのだから。書かれてはいないが、もしかしたら妻も悲しすぎる心を紛らわせる、忘れさせるために、Nの親友である学者と勢いで結婚したのかもしれない。そういう気持ちが全くなかったとは言えないだろう。現実的な女性脳なら、選択しそうなことで清廉潔癖に描かれている妻にも、最後、正直であろう、と告白した夫の前で我が身のことも考えさせられるのだろうが、でもそれを明確にしてどうなる! という叫びしか出ないではないか。裏を返せば、女性のその防衛本能から選んだ選択を老学者が肌でうっすらと感じ続けていたからこそ、この死の床の物語が初めて成り立つ、という皮肉。

 人生の縮図さえ描いているように思える。この短編は収穫であった。他の短編も楽しみである。