呉エイジ 秘密の探偵小説読書日記

日記と探偵小説の読書録

杉山淳『怪奇探偵小説家 西村賢太』を読む

 

 初版は瞬殺となり、オークションサイトで数万円まで跳ね上がった個人誌を、どうにかこうにか入手することができた。

 芥川賞作家である私小説作家、西村賢太を怪奇探偵小説(変格探偵小説を含む)からの観点で捉える、という試みで、あっという間に本書が売り切れたのは、西村賢太そのものの人気もあるだろうが、西村賢太がエッセイで言及する、マイナーな探偵小説作家、若い頃に読み漁ったその辺りの蓄積が、実作に反映しているのではないか、という考察が正しいことの証明であろう。

 検証するには、なかなか書店で手にすることの出来ない大河内常平や倉田啓明ではあるが、そもそもの日本の探偵小説の発生に、江戸川乱歩のポーからの影響、というものは、勿論筆名を見ただけで一目瞭然であるが、それはスタイル、形式や様式の衝撃であって、その新形式の文学を我が国に移植する場合、母国語に変換する必要がある。

 ここで、専業探偵小説家である江戸川乱歩は、日本語で語る際、何をよりしろにしたか。この辺りは横溝正史の随筆でも有名な、乱歩の初期短編を読んだ横溝が『宇野浩二が変名で書いたのかと思った』という感想からも伺えるように、当時の日本文学シーンからの影響、それも破滅型、歪な心理を曝け出す私小説のスタイルに依る所が大きいのではないか、という考察である。

 これは正しい。しかし、この方面での深い考察や指摘は、これまであまりなされていなかった印象がある。娯楽作品と文学作品の分断である。

 そこに目をつけ、問題を提起し喚起した本書の功績は大きい。

 私小説の中でも情痴文学というものがある。男側の一方的な、それは非常識とも言える女性に対しての常軌を逸する行動。現代の言葉で言えばストーカー。

 そういう歪な心理の活写は、間違いなく変格探偵小説の重要な要素であろう。本書を読むことで作品と系統を知り、これまでに縁のなかった文学作品を読み始めた。田山花袋の『蒲団』は作家の元へ弟子入りしてきた若い女性に、妻子ある作家が恋心を抱いてしまう、というもの。これも世間一般の常識な倫理に照らし合わせれば、思っても人に言うべきことではなく、隠したり、そのような想いを人として正さねばならぬことであろう。

 それを包み隠さず描写したところに、この作品が今も延命している作品自体の力があるように思う。

 近松秋江の作品では、別れた妻が、浮気相手とどこに泊まったか、宿帳を丹念に捜索する、という偏向した心理が描かれる。そこには、如何ともし難い人間の偽りのない業が掘り込まれている。

 同時代作家の娯楽作品が、現代では全く読まれずとも、田山花袋の『蒲団』は未だに版を重ねる。

 江戸川乱歩の『人間椅子』が、椅子の中に人間が忍び込み、そこに座った女性と密着する、という願望の成就、という私小説的な心理をミスリードに使う理知文学の案出。

 本書は私小説と変格探偵小説との様々な繋がりを夢想させる格好の一冊である。

 今後、本書が受賞し、増補版が出る暁には、是非とも本書では敢えて明言を避けている、西村賢太作品の最も怪奇変格探偵小説に接近した具体的な作品名を明記して頂きたいものだ。

 現時点ではそれは本書を読んだ読者の作業となっている。とはいえその解決の仕方も、いかにも変格探偵小説的ではないか。