いやぁ、この歳で同僚と仲違いするのは精神的に堪えますな。
仮にね、こちらが会社的ルールで正しかったとしても、言い方に悪いウェーブが乗っかれば、理由に関係なく「何かが確実に壊れる」ことを知ったんですよ。
高い勉強代になりましたね。おそらく修復は無理でしょう。
たかが仕事、でしたよ。今にして思えば。しょうもない仕事の手順ごときで、人間関係を崩すまでもなかった。
反省、というか、やり込めても虚しさだけが残ることを知る。教訓、ですね。
傷心です。
※
さて、今回は「赤鱏(えい)のはらわた」を読み終えた。
どう書こうか(笑)同じ時期に発表の、前回読み込んだデビュー作「レテーロ(略)」に比べると、一段落ちる出来だ。
内容に踏み込んでいるので、未読の方はご注意を。
小説投稿サイトが百花繚乱な現代において、この構造では短編一本を支えるには弱すぎる。
タイトルで「オチ言っちゃっていいの?」という感じだし。
なら読まずに済ませていいのか? というものでもない。流麗な文章、味のある語り口は一読の価値あり、である。
放蕩息子を嘆く、父親の一人語り、という体裁。聞き手の姿は見えない。
飲む打つ買う、の息子が「改心するからまとまった金を貸してくれ」というのが本筋。結婚すれば落ち着くか、と考える父と、芸者を身請けする金など出さない、と反対する義母。
ここでヤケを起こした息子は「貸してくれないのなら腹を切る」と言って晒しの上に刃物を突き刺す。
「最後の頼みだ、死ぬ前に大金を握らせてくれ」
と、握らせたら、先ほどまでの苦悶の表情は何処へやら。スタコラサッサと逃亡してしまった。
これではなぁ。読者は奇妙なタイトルが常に念頭にあるし。晒しの上に刃物を突き立てて、溢れ出る贓物が、となれば鈍感な読み手だとしてもタイトルと直結するだろう。
何に焦点を置いて書かれたのか。
タイトルを「死の間際に」とかにすれば、オチの露見は未然に防げたのではないか。冒頭に「釣りが趣味」「大物を釣り上げた」みたいな伏線をサラリと滑り込ませておくとか。
親父さんの語り口に味がある分、勿体無いなぁ、と。森下雨村が「新青年」に採った理由は、探偵趣味ではなく、達者な語り口と、凄惨な事件に一見見えるが、実は、といった独特のユーモアセンスだったのかもしれない。
1926年5月「新青年」