呉エイジ 秘密の探偵小説読書日記

日記と探偵小説の読書録

甲賀三郎『支倉事件』を読む

 

 長年積読状態であった敬愛する作家、甲賀三郎の代表長編とも言われる犯罪実話『支倉事件』をようやく読み終えた。

 一つ長く放置していた宿題をやり終えた気分である。

 サブテキストとして新青年趣味の甲賀三郎特集が大いに役に立った。特に井川理氏の「実話」のポリティクス〜甲賀三郎『支倉事件』の島倉儀平事件をめぐる「事実」の変奏〜は、読み物としてもべらぼうに面白く、格好の副読本となった。

 さて、この作品を甲賀三郎の代表作、とされてしまうことに素直には頷くことができない。結局犯罪実話であるし、これを創元推理文庫に入れたために、現在まで〜犯罪実話の人、本格を提唱した論客で堅苦しそう、遊び心がない〜といった偏見を後押ししてしまった側面があるのではないか。

 あの文庫から本作を取り去り「体温計殺人事件」「血液型殺人事件」「妖光殺人事件」「山荘の殺人事件」「木内家殺人事件」などで編集していたら歴史はどうなっていただろう。

 新本格よりも早く甲賀一派が生まれ、いかにも、な探偵小説に飢えていた当時のシーンに一石を投じたことであろう。あくまでifの歴史ではあるが。

 閑話休題、本作の話へと戻ろう。この作品は実際に起こった事件の資料と聞き取りで再構築された、実話に限りなく近づけた犯罪譚である。

 支倉という職業、牧師が聖書を盗み、売り捌き、その件で警察が自宅まで事情を聞きに訪れると、一瞬の隙を見て逃走。

 そして逃走したまま警察を愚弄する手紙を送り続けた、というぶっ飛んだ性格の犯人なのだ。

前科を洗うと、自宅が数回、火災に遭っており、その度に保険金が支払われている(めっちゃ怪しい)。そして女中を暴行し、性病までうつしてしまっている。

 そしてその女中は行方不明となっており、未だ音信不通、生死すら分からない状態であった。

 井川理氏の論文から、本作では言及されなかった事実を、本作を読後に読み、何とも言えない気分になった。

 警察は女中が行方不明になった同じ年、井戸から上がった身元不明の女性死体が女中ではないか、と当たりをつける。

 掘り起こして白骨化した骨は、家族で同じ特徴の犬歯、僅かに残っていた衣類は、当時女中が着ていたもの、と限りなく女中を指し示すものであった。

 身元不明の引き上げが行われていた時、現場には支倉も見物していたという証言があった。

 遠目から見て、腐乱死体が女中だと分からない状態になっているかどうかを確認しに来ていたのかもしれない。

 本作を読んだだけでは、甲賀の筆が警察寄りであるため、支倉犯人説が濃厚なのだが、井川氏の論文中にある〜女中を世話していた老婆が、性病から自殺する可能性もあった〜という趣旨の発言を残していることを知ると、ちょっと待てよ、という気になる。

 確かに支倉は女中を強姦し、性病をうつしてはいるが、殺害した決定的な証拠がない。ここは自白によるものだけなのだ。

 状況証拠はある。そして女中の兄から金銭を請求されて、金を惜しんで殺してしまい、行方不明として慰謝料を有耶無耶にしたのではないか、との推測も成り立つ。

 それを踏まえた上で、個人的見解を述べさせてもらえれば、八対二の割合で支倉犯行、二割が自殺と思えた。

 自殺幇助の線もあったかもしれない。

 十六歳の若さで性病になり、世を儚んで自殺。事件当日、月明かりは「無し」である。若い女性が一人で、真っ暗な寂しい空き地の廃井戸まで行って身を投げるだろうか。

 ないとも言えない、か。海に身投げしたり、電車に飛び込んだりする方を選ぶのではないか、とも思えるが、死を決意した女性なら、一人でも闇夜の井戸まで歩き、人生を終わらせる可能性はないとも言えない。

 防犯カメラもDNA鑑定も無い、自白中心の判決。冤罪もあったことだろう。この事件も決定的な証拠に欠ける。

 色々と思い悩んで頭を掻いていると、目の前にモヤモヤと人影が現れた。思慕の念が通じたのか、それは甲賀三郎の姿となって現れた。

「こ、甲賀先生ッ!」

「誰だね、君は」

「遠い未来で先生をお慕いしている者です」

「ほほぅ、そうかね。私の作品は未来まで読み継がれているのかね」

「いいえ、殆ど復刊はされず、ほぼ忘れられた作家となっております」

 私は悲しい現実を突きつけた。先生はメガネの奥の眼を細め、不審げに

「馬鹿な、あれほど多く作品を書き続けたというのに」

 と気分を害されたようであった。私はいたたまれなくなり、思わず嘘をついてしまった。

「本は出ています。江戸川乱歩の全集と並んで書店で未来でも手に入ります」

「そうだろう。江戸川君の作も読み継がれるべき力を持った作品群だ」

 先生の機嫌は持ち直したが、少々心が痛む。

「先生のお作『支倉事件』のことですが」

「ほう、あれを読んでくれたかね」

「はい。先生は掲載誌に忖度して、女中を世話した老婆の証言を取り上げなかったり、支倉の妻が、アッサリ書生と再婚してしまって、作中ほど献身的ではなかったこととか、脚色されていますよね」

「……。」

「どうなんですか? 先生」

「脱稿後、判明したこともあってね、だから私はその後に弁明をしている。掲載先で抹消されたりもしたがね」

 先生は複雑な表情を浮かべていた。

「そうして犯罪実話で進めているのに、何故先生はいつもの手癖で、駅のホームで偶然重要な関係者が鉢合わせをするような超ご都合主義な筋の進め方をするのです。そこら辺が、のちの社会派に鼻で笑われてしまう所であり」

「社会派?」

「本格、変格の後に台頭してきた、動機を重視した社会性のある探偵小説のことです」

「ほう、興味深いね」

「そして、支倉の妻が支倉の知人に危うく強姦されそうになるシーン。これなどは、こんな事実があれば奥さんが決して証言するはずなどないですから、これは先生の創作ですよね。私みたいな大衆小説好きは、このようなシーンは大好きで、本作でも最も印象的なシーンだったのですが」

「そうだろう」

「あまりにメロドラマに過ぎ、事実を湾曲してしまっているのではありませんか?」

 先生は眉間に皺を寄せ、不快な表情を浮かべていた。

「イリュウジョンが!イリュウジョンが!」

「先生、待ってくださいッ!」

 そのまま先生は消えてしまった。と同時に私の頭がガクッと揺れた。どうやらデスクで寝落ちしてしまっていたようであった。

 夢とはいえ、先生にきつい物言いをしてしまったことを少し後悔しつつ、今後、甲賀作品を少しでも世に広める思いを更に強くするのであった。

 

〜完〜