呉エイジ 秘密の探偵小説読書日記

日記と探偵小説の読書録

近松秋江『黒髪』三部作・雑誌初出版『霜凍る宵』

 

 読後、興奮冷めやらず、の状態に未だある。この歳になると、すれっからしの頭では大抵の読書では驚くこともないが、この本、とんでもない読書体験であった。

 純文学ファン、私小説ファン、そして探偵小説ファンにもお勧めする一冊である。あるうちに入手しておくのが精神衛生上よろしいかと思う。

 黒髪シリーズと呼ばれているこの作品集。巻頭に谷崎潤一郎の序文『黒髪』『狂乱』『霜凍る宵』『霜凍る宵 続編』そして巻末に宇野浩二近松秋江論が収録されている。

 私小説作家の作品だけあって、この作、ほぼ実体験を元にした小説だと言われている。主人公の男は作家(本文中でははっきりとした明記はなかったが)。そして恋焦がれる女は京都で芸奴をしている。

 男はおおよそ五年、金を貢ぎ続けている。借金を完済して、商売から足を洗わせ、身請けしたいがためだ。

 男は愚直に、ひたすら実直に、金を送り続けているが、相手の気持ちも身の振り方も、今一つはっきりせず、悶々としている。ただあるのは『これほど好きで、身を切る思いで送金しているのだから、この気持ちが伝わらぬはずがない』という信念だけである。

 このあらすじを読んでどう思うだろうか。あまりのドン・キホーテぶりに逆にユーモラスに映る、といった評もあるが、悲壮を通り越して滑稽に映る、ということはよくある。しかしそれは読み手が上からの目線に立った場合である。精神的優位の場合は

「バカだなぁ、そんな相手に金を送り続けて、確実に約束が守られると思ってるの? お金だって何に使われているか分かったものじゃない」

 と、幾分余裕をかまして、そのような感想も持つかもしれない。しかし自分が恋愛の、それも熱烈な恋愛中の、相手の気持ちが分からない、常に不安な状態で判断も何もあったものじゃない状況を思い返して欲しい。その渦中にあらば、この主人公のことを笑い飛ばすことなど決してできぬであろう。

 当時の作家の収入がどれほどあったのか。読みながら何度も東京から京都へ行き来し、その度に旅館をとって、飲み食いする描写に、男の懐具合も心配になってくるのだ。

 プラトニックラブ、といった綺麗なものではない。普通の感覚なら、一年以上会わないのに、東京から送金だけし続けて、その進捗が気になって京都に乗り込んでみれば、芸奴から『ここでは会えまへん』旅館の場所を変えれば『今はまだ言えまへん』など、さっぱり要領を得ない返事ばかりを喰らえば『もしかして私のこれまで貢いだ金は、無駄になっているのではないか』と、頭をよぎっても良さそうなものであるが、男はそんなことを考えたくもない。ゴールは女を自分のものとすること、なのだから、不安材料は片っ端からブルドーザーのように脳内から除外していく。

 周りも悪い。勤め先の女将、や、芸奴の母親など。男がしつこく付き纏うと『病気でもうここにはおりまへん』『精神に異常を来して叔父に連れて行かれました』など、男に対して全て適当にはぐらかす。

 普通の感覚なら『彼女が好きなのです。長年送金してきました。一目でもいい、会わせてください』となった段で『あー、もう娘はもう病気でここにはおりまへん、おりまへん』となったら『嗚呼、金は無駄になったかもな。詐欺だったのだ』と察するだろう。

 しかし男は近松秋江である(笑)。病気と聞けば心底心配し、どうしても見舞いに行きたい、と詰め寄って、母親や女将を困惑させるのだ。何故、引かない、と逆にビビるのだ。

 男は誰一人『あんさんのやってきたことは無駄だったんどすえ』と言ってこないから、恋は終わるはずがないし、終われないのである。

 さすがクソ騒がしいガキに向かって『元気よろしいお子さんどすな』と吐き捨てる京都人である。

 そんな遠回しの嫌味など、近松秋江に通じるわけがないし、察するわけがない。叔父の家はどこですか? と聞き、歩きで漠然と住所も知らず夜まで彷徨い歩くのである。嘘なので、当然居ないし、村人もそんな女性知らない、と言われてしまうのだが。

 この作品群には有名な、女がいる、と当たりをつけた長屋に、母親が来客を見送るために出ていった一瞬の隙を見て、不法侵入し、女と再会する有名なシーンもある。

 これは単純に犯罪、では括れない話だ。男は身請けするだけの大金を貢ぎ続けているのである。周りは『往生際の悪い。見苦しい真似はよして察しろよ』と思うだけで口にしない。男としては

『いつ一緒になれるのだ!』

 という想いしかないのである。失恋をした後、普通の人間なら、あれこれ妄想してゆっくり忘れていく行動をとるだろう。この作品は、失恋しても謎の馬力で接触し続ける悪夢のような展開なのだ。

 そして驚愕したのが最終章ともいうべき『霜凍る宵 続編』だ。この作品だけ毛色が違っている。

 ここまでの道のりを芸奴の同僚と、勤め先の女将からの証言を、男が聞く、という体裁をとった作品なのだが、この作品を読んで私は目を見開いた。

「この感覚、完全に探偵小説の解決編ではないか」

 と。私は重厚な探偵小説の解決編を読んでいるときと、同じ感覚に陥ったのである。ここまで起こった出来事の、裏側を別の人間の視点で語る、真相というべきものだ。

 私は驚嘆した。これは変格長編探偵小説の到達点ではないのか。

 理知文学である探偵小説は解明される。しかし本作は芸奴本人不在で真相が語られる。完全ではなく不透明である。恐らくそうだったのではないか、という答え合わせだ。

 しかし本作には未収録だが、この一連の事件の後日談ともいうべき短編があるそうだ。全集を購入し、確認せねばならないが、その作品では結局、芸奴はその後発狂し、狂女となって隠匿してしまったらしい。

 殺人を恋に置き換えれば、謎から解明の手順を踏む探偵小説の様式、それも変格としての完璧な体裁を、大正十一年、およそ百年前に成し遂げていたのだ。

 純文学ファン、探偵小説ファンの両方から怒られるかもしれないが、暴言を敢えて承知で言わせてもらえれば、長年探し続けていた木々高太郎の探偵小説芸術論、本作はその見事な完成形である。

 文学史でも異彩を放つ本作、きっと貴方にも強烈な読書体験となることだろう。愚かだなぁ、と簡単に笑って済ませるだけの作品では決してない。

 本作を読書中、常にDMで意見を交換し、多くの有益な示唆を与えてくださった、巻末解説を担当された杉山淳さんに心から感謝いたします。