ハガキが来ていたので午前中に愛車の定期点検に行ってこい。と嫁さんに言われたので、眠たい目をこすりながら家を出た。
「混み合っているので夕方までかかります」
と担当に言われたので、私は仕方なくバスで帰ることにした。嫁さんは部屋の大掃除を始めたので、邪魔をすれば災難が降りかかるでろう、という長年の経験と勘からである。
自動車屋を出ると隣も自動車メーカーのディーラーショップなのだが、何と歩道にガッキーのような可愛い女性が立っていた。
出て行くお客さんの車が見えなくなるまで見送るためであろう。最近の車屋ではよく見かける風景だ。
私は歩道で彼女の直線上に並んだ。ガッキー似の彼女は出て行く車に頭を下げる。リクルートスーツの下から覗く美しい御御足。
私はさも自分が可愛い女性からお辞儀をされているかのように、直線上で彼女のお辞儀を全身で受け止めたのであった。心の内で「苦しゅうない」と呟きながら。
それくらいに私の日常には素敵なことが少ないのである。お辞儀のお裾分けくらい良いではないか。
さて「平林初之輔探偵小説選1」より続けて「誰が何故彼を殺したか」を読んだ。
このタイトルでピンと来た方は、オールド探偵小説ファンであろう。浜尾四郎に「彼が殺したか」「彼は誰を殺したか」という「殺したか」シリーズがあるからである。
しかし年表を見ると本作は1927年の4月、浜尾四郎の「彼が殺したか」は2年遅れて1929年の1月の発表である。
浜尾四郎の二作は大昔に読んでいるはずだが、記憶が薄れてしまっている。そのうちこの日記内で読み返すことだろう。どのような影響や関係があるのか、気にしながらこの作品も読み進めてみたい。
一本前の「祭の夜」があまりにも通俗的に舵をきっていたので、方向転換か? とも思ったが、やはり掲載誌へのカラーを考えた結果であったようだ。
新青年に掲載された本作は『犯人当て』という形式をとりながら、社会悪への問題提起を織り込んでいるところに面白みがある。
舞台は三軒が隣接する長屋風住宅。死体の発見者である下田の細君が冬の早朝、敷地の真ん中にある共同汲み上げポンプの前で奇声を発した。
柴田家の亭主が裏庭で氷漬けになって死んでいたからである。
下田家の二階に間借りしている法学士の安田が気が付き、雨戸を開けて下田の細君に声をかける。
下田家、被害者の柴田家、その隣の林家も起き、場は騒然となる。
どうも柴田の亭主は撲殺されたらしい。そしてそのまま夜の寒さで全身凍りついた模様であった。
この発見者が法学士、というのが後の浜尾四郎にどのようなインスパイアを与えたか。
ここからはネタバレにもなるのでご注意を。
柴田の妻は亭主の死体を見てもそれほど驚かない。発見した下田の細君の方がよっぽど動揺していた。
そのうちに野次馬が集まり出し「あぁ、殺されて当然の人だな」「因果応報だな」という声が漏れ聞こえてくる。
世間での柴田の亭主の評価だ。
そして急に法学士の安田が演説を始める。
「この男は生きている方が人類のためになったでしょうか? それとも死んだ方が…」
ここで警官が来て演説は中断される。
この殺された柴田、という男は詐欺師まがいのやくざ者で、妻を何人も取り、暴行を加え、身ぐるみはがして取る物がなくなれば追い出して新しい細君をもらう。
というひどい男であった。
結局事件は迷宮入りとなった。
話の構造として警察の尋問の際、各家庭の証言と時間にヒントが隠され、注意深く読んでいれば、弁護している側の主張に信憑性がないことがわかるようになっている。
本格然とした骨格である。
そして動機の背景には「法で裁けぬ野放しになった悪を、社会正義のために自分が犠牲となって排除」したのではないか?
という弁護士の推理の手記でエピローグ的に語られて終わる。
このような「法の限界」に対する問題は、その専門家であった浜尾四郎をさぞかし刺激したことであろう。
悪い奴は殺しても良いのだ、という人物造形はしておらず、女性への仕打ちを知り、悩んだ末の犯行であって、自首するつもりであったのだろう。
と優しい眼差しを犯人に向けているのが印象的で、作者が性善説寄りの持ち主であることが窺える。
「誰が何故彼を殺したか」1927年(昭和2年)4月「新青年」