昨日、誕生日の1日、終わるギリギリで嫁さんからのプレゼント、アマゾンのプリペイドカード一万円分を我が手にすることができた。
いつも「あるのか」家計が厳しいから、という理由で「無いのか」予断を許さないのである。晴れやかで喜ばしい、一年に一回の誕生日であるというのに。
そしてそれとは別に、今月分の小遣いが封筒に入れられて支給された。
嫁さんは「枚数が多けりゃ喜ぶはず」とでも思っているのか、二万円の小遣いを全部千円札で支給するのだ。
店で両替する手間は省けるが、小学生に与えるお年玉のようでもある。
嫁さんが風呂に入っている間に、私は封筒の中身を確認した。
何度数えても21枚あるのである。
「(ラッキー)」
慌てて入れたのか、新札がくっついたか、なんにせよいつもより千円も多い。
「(何年も固定制で文句も言わずやっているのだ、貰ってやれ)」
世の49歳は、さぁボーナス時には「新しいゴルフクラブを買え」だの(私はゴルフをやらない)、さぁ、部下と駅前に飲みに行くから酒代を出せ(私は下戸なので酒の世界も縁がない)だの、小遣いとは別に、男の世界の交際費を家計から出して貰っているはずだ。
それらに比べて私の慎ましい暮らしぶりはどうか。たまに東京から帰ってくる相棒の金平と、ブックオフへ行くくらいではないか。
それでもやはり良心がチクチクと痛む。寝覚めも悪い。私は駆け引きのつもりでギリギリの会話で黙秘の罪から逃れようとした。
「あぁ、誕生日月、サービスで千円多く入れてくれてたんやな、ありがとう」
すると嫁さんは不敵な笑みを浮かべながら、こう言ったのだ。
「正直に言うたか、あの後、生活費の総まとめでノート付けてたら、千円足りん、あぁ、あんたのとこへ新札がくっついて行ってしもうたな、どう出るか、って待ってたんや。ちゃんと言うてきたから、それはサービスしてやるわ」
私は筋トレで鍛えているにもかかわらず、小刻みに震えだす膝を必死に食い止めながら、心の中で叫ぶのであった。
「(オマエはヤクザかっ!)」
※
さて、今回は「日陰の街」を読み終えた。
この月は乱歩「踊る一寸法師」甲賀三郎「ニッケルの文鎮」の発表月である。
本作は中編とまではいかない、少し長めの短編。倫敦を舞台にした日本人が巻き込まれる犯罪、それから彩りを添えるローマンス。
ここまで松本泰を読み続けてきて、泰先生の好み、というか、好きなスタイルとして、主人公が「今何をやらされているのか?」という謎で引っ張る形が目立つな、ということ。
雇う条件として、毎日ここと、ここへ行き、私に会うのは許可を貰ってでないと部屋に入ることも許さん。
みたいなことを吹っかけられ、読者とともに「この行動にはどんな意味があるのだろう」という謎で引っ張る形式。
前作の「ゆびわ」でも見られた傾向である。
本作の魅力は「探偵小説」の魅力ではなく、主人公の日本人の友人、柏の異国での頼り甲斐のある友情、貧乏でも明るい心持ち、ヒロインと近付けそうで近付けない淡い初恋のような慕情。
という「普通小説」としての魅力である。
1926年(大正15年)1月「探偵文藝」